昨今の厳しい経済情勢下、希望する会社に就職できずに悩んでいる若い人は多いだろう。私が就職した四十年前といまでは随分事情も異なるが、本来の希望とは異なる道を歩んできた私の体験は、なにがしかの参考になるのではなかろうか。(理事 津田晃)
私は商社で活躍していた父の勧めで商社マンを志し、早稲田大学の商学部へ入学した。在学中に広告にも興味を持ち、就職先は大手商社か電通に絞り込んでいた。
就職活動の時期、親しい友人の一人が日本脳炎に罹って出遅れ、彼には昭和四十年不況の煽りで不人気だった証券会社くらいしか求人は残っていなかった。彼から頼まれて野村證券の大学OBとの懇談会に付き合いで参加したところ、後でOBの一人からご連絡をいただいた。証券会社はこれからバラ色だ、と熱心に入社を勧められたのだ。無下に断るわけにもいかず、ゼミ担当の教授に相談してから返事をすることにした。
貿易論の教授からは初志を貫いたほうがよいと言われたが、広告論の教授の見解は違っていた。海外事情に詳しいその教授は、アメリカでは証券ビジネスが急成長しており、いずれ日本もそうなるだろうとの見解を示され、どうせ選ぶなら自分を求めてくれる会社がよいと勧められた。私はそのアドバイスに心を動かされ、それまで考えもしなかった野村證券への入社を決意したのだった。
ところが入社後の仕事は、最初にイメージしていた顧客の資産管理の仕事とは大きく異なっていた。研修が終わるや分厚い高額所得者名簿と商工名鑑を渡され、これを見て自分でお客様を探してこいと命じられショックを受けた。案の定、訪問先では「証券会社なんて縁起が悪い」などと罵られ、塩を撒かれたり、名刺を目の前で破られたりと散々な目に遭った。
大変なところに入ってしまった……。
悩んで入社を勧めてくれた教授のもとへ相談に行った。その時いただいた言葉はいまも心に残っている。
「人生は、踏み切る、割り切る、思い切るの三切るだ。踏み切ったらまずは割り切って一所懸命やってみなさい。それでダメなら思い切ればいいじゃないか。君は踏み切ったばかりでもう思い切ろうとしているが、それはまだ早い。もうしばらく割り切って続けてみるべきだ」
私は原点に返って仕事に打ち込むことにした。
準備が自信を生む
運がよかったのは、配属された支店にしばらく新人が入らなかったため、先輩方から随分かわいがられたことだ。
当時の野村證券はダイヤモンド経営というのを標榜していた。ダイヤモンドが様々な角度からカットされ、たくさんの断面を持つからこそ美しい光彩を放つように、野村證券にも個性豊かな人材が集まっていた。先輩方に心を開いて教えを請うと、いろいろな角度からアドバイスをもらうことができ非常に勉強になった。
ある時先輩から、株や債券の営業をするからには『会社四季報』くらいは覚えていけと言われた。当時でも二千数百社くらいのデータが収録されており、とにかく分厚い。私は毎日三枚(六ページ)、十二銘柄ずつカミソリで切り取り、通勤電車の中で懸命に覚えた。三か月で読み切ると新しいものを買ってまた一から読み返し、一年で大体頭に叩き込んだ。併せて有名な『酒田五法は風林火山』など、相場の本も多数読み、専門知識の習得に努めた。
勉強が進むにつれ、お客様から聞かれたことに対してほぼ的確なアドバイスができるようになり、「よく知っているな」と褒めていただくことも多くなった。しっかり準備して臨むと、それが自信に繋がることを実感した。
ある上場企業の社長は、いくら足を運んでもなかなか面会の機会をいただけなかった。その日も面会を断られて辞去しようとすると、秘書の方が「津田さん、いつも申し訳ございません」と声を掛けてくださったのだ。この方はもう私の味方だと直感し、すぐに菓子折を持参して改めてお礼に伺った。
その時に「これを毎日社長様の机に置いていただけませんか」と私の名刺の束を渡しておいた。彼女はそれを忠実に実行してくださり、ある日とうとう面会の許可が下りたのである。その時は、日頃から準備していた地元企業に関する情報を提案して気に入られ、以来親しくお付き合いいただけるようになった。
その社長からある時、いつもバタバタと走り回っていることをたしなめられ、「自分の指を嘗めてそれが乾くまでの間でいいから、一日を振り返って反省する心のゆとりを持たなければダメだ」と諭された。
私は行く先々でそうした貴重なアドバイスをいただいた。私がいまあるのは、そうした一つひとつの教えのおかげであり、皆様にはいまでも深く感謝している。
大きな仕事と取り組め
学生の時、広告の仕事を志していたこともあり、電通中興の祖と謳われた吉田秀雄さんの「電通鬼十訓」には深く心酔し、指針としてきた。後にベンチャー企業育成の仕事に携わった時には、経営者の皆さんにしばしば十則を紐解き、このうち七つ実践できれば絶対に公開できると説いた。
十則の三つ目に、
「大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする」
とある。ただ会社に来て漫然とやっていてはいつまでも仕事は発展しない。大きな目標を掲げてそれに挑戦してこそ成長できるのだ。
私は当初、株式で百万株、債券では五億円を一回の取り引きで成約することを目標に営業に打ち込み、いずれも達成することができた。後に株式で二千四百万株、債券で二百五十億円といった記録的な実績を上げることができたのは、そうした心掛けの賜物である。
大きな注文を取ろうと思えばその分苦労も大きい。大物顧客に一所懸命手紙を書き、夜討ち朝駆けで訪問を繰り返し、時に怒鳴られながらもなんとかチャンスを掴もうと知恵を絞り、工夫を重ねる中で自分が磨かれていくのである。
そうした向上心を持って臨めたのは、会社に営業の神様と呼ばれ、後に社長も務められた田淵義久さんの存在があったことも大きい。
残念ながら一緒に仕事をさせていただく機会はなかったが、直属の部下だった先輩のはからいで一度食事をご一緒したことがある。その時田淵さんからいただいた、「営業は断られるところから始まる。そこで一所懸命やるところに価値が生まれる」
との言葉には深い共感を覚えた。
努力を続けた者こそが勝利を掴む
営業とは何だろうか。私は三つのポイントがあると考えている。
まず押さえなければならないのは、給料についての認識である。辞書には事業主が使用人に対して払う報酬とあり、給料は会社からもらっているという認識が一般的だが、それは間違いである。給料はお客様からいただくものである。
二つ目は、営業とは単に物を売りさばくことではない。お客様の問題を解決するソリューション・ビジネスであることを心得なければならない。
ドラッカーは企業の目的を顧客の創造と説いているが、これは営業にそのまま当てはまる定義である。駅前に立って一万円札を九千五百円で売ればどんどん売れるだろう。しかし一万円札を一万十円で売るのが営業である。そのためにはその価格に納得していただけるだけの付加価値をお客様に提供しなければならないのである。
三つ目は継続力である。
将棋で前人未踏の七冠を成し遂げた羽生善治氏は、「才能とは情熱や努力を継続できる力」とおっしゃっている。営業もコツコツと弛まぬ努力を続けた者こそが勝利を掴む。そこへプラス・ワンの努力を加えると、成功はより確かなものになる。
例えばきょう予定していた十本の電話をかけ終え、さて帰ろうかという時に思い直してもう一本かけてみる。そのもう一本で注文がとれたりするものなのだ。一週間で五本、ひと月で二十本、プラス・ワンの努力の積み重ねは、いずれ大きな財産となって返ってくる。
一所懸命努力していると、いろんな壁にもぶつかるだろう。しかしそこで立ち止まって悩んでいても物事は解決しない。行動してこそ物事は前へ動き出すものだ。そして迷ったらしんどいほうの道を選ぶこと。これを若い頃から鉄則としてきたことで、実力も養われ、運も味方にすることができた。
全力疾走ができるのは若いうちだけ。このことを自覚して、とにかく自分の仕事に精一杯打ち込んでほしい。自分の入りたい会社に入れなくとも悩むことはない。実際、その会社が将来にわたって存続する保証はまったくないのだ。就社ではなく、本来の意味での就職へと頭を切り替え、縁あって入った会社で、与えられた職に全力を尽くし、その職においては一日も早くプロの域に達することである。
私の義父は丁稚奉公からたたき上げて青果業で成功を収め、群馬県の業界理事長まで務めた人物だった。義父と酒を飲むと、いつも壊れたテープレコーダーのごとく「上見て励め、下見て暮らせ」と繰り返し言い聞かされた。理想を高く掲げ、辛い時には自分より苦しい立場の人を思って気持ちを切り替え、頑張ってほしいとの願いであった。その後決まって言われたのが次の言葉だった。
「励みこそ生きる道。怠りこそは死の道なり。勤しみ励む者は死することなく、怠りに耽る者はよし命ありとも既に死せるなり」
二十代の若い方々にぜひ知っていただきたい言葉であるとともに、私自身も改めて心に刻み、これからもさらに前進し続けたい。
つだ・あきら 昭和19年福井県生まれ。早稲田大学商学部卒業後、野村證券入社。62年43歳という異例の若さで取締役大阪支店長に抜擢。平成8年専務。11年日本合同ファイナンス副社長。14年野村インベスター・リレーションズ会長。17年日本ベンチャーキャピタル社長。21年同社顧問。現在、日立キャピタル取締役、酉島製作所監査役、宝印刷取締役、ジェイエヌシー取締役会長ほか、数社の役員を務める。著書に『どんな人にも大切な「売る力」ノート』(かんき出版)があり、今春、中国版が発売される。
『致知』2012年4月号(致知出版社発行)より、御許可を得て転載しました。