記録的な大地震と大津波に原子力発電の深刻な事故が重なった未曽有の複合災害にみまわれてから早くも1年がたった。尊い命を失われた方々のご冥福を祈るととともに、被災者の方々のご苦労、復旧・復興活動に携わっておられる地元役所・警察・消防団の方々、あるいは命がけで原発安定化に取り組んでおられる現場職員・作業員の方々に深い尊敬の念をささげたい。
この1年間で全く景色が変わった。安全と安心と電力は空気と同じでどこにでもあると思っていたものが根底から覆され、自分一人では生きていけないこともハッキリした。 (理事 早川成信)
私自身の世の中の見方も変わった。その最たるものは「日本の若者は見捨てたものではない」ということだ。大震災前の私の目には、多くの若者達は、「自分勝手で」「他人とか社会のことなぞどうでもよく」「ものもマナーも知らず」、「ただチャラチャラして」「自分を含め将来のことなぞ考えない」「短絡的な」存在、としか映らなかった。
しかし、この1年間の日本の若者達はどうだったろう。震災直後から多くの若者がボランティアとして現地に飛び、どれだけ被災者の支えになってくれたことだろう。ボランタリー活動を通じて現地復興の役に立とうと定住してくれた人も多数いると聞く。支援募金でも、赤い羽募金とは比べものにならないくらい若者の数が多い。少ない所得を割いて寄付を行ってくれている。TV・新聞などで見聞する若者の声も、心底被災者を悼み、被災地の1日も早い復興を願っているように感じられる。
若者達は、言葉の使い方・表現する方法を知らず、社会常識を学ばず、に来ただけなのかも知れない。願わくば、自分たちの将来を考え今後を過ごして欲しい。若者たちが大丈夫なら、日本の未来も大丈夫のはずだ。
それに引き換え、この1年、最もダラシナク、信頼を失うどころか笑いものになったのが政治だ。復旧・復興を推進するどころか邪魔をしている。まず中央官庁。いっこく堂よろしく経済が判らない財務大臣(人形)を通じて財政再建を主導している。日本は今大怪我をしているのだ。結核も併発している。糖尿病が怖いからと云って栄養補給しなくてどうするのだ。それこそ「病気は治ったが患者は死んだ」ことになってしまう。
よしんば、金がなくても物事は進められる。ガンジガラメの規制を変えればよいはずだ、現場を見ずして現場のニーズが判るはずがない。霞が関でふんぞり返って、現場の切実な規制変更・運用変化の願いに耳をかさない。先日TVで、総務省から釜石市支援で出向したが復興の一助になろうとキャリア経歴を捨てて市職員になった方(30才台と見受けられたが)が「平時向けに作られた規制は非常時には使えない。柔軟な対応があってしかるべきではないか」と遠慮気味に云っておられたが、正に大非常時に「何をやっているのだ」と云いたくなる。
役所以上に足を引っ張っているのが政治だ。政府・官邸がだらしない、なぞとよく云えたものだ。政治屋は政局を好む、という。この1年間、この大非常時にもかかわらず政局に明け暮れた。被災地以外の代議士は次の選挙対策しか頭になく、いつの間にか新幹線も高速道路も建設が決まってしまった。権力基盤を死守するため党が決めたことに反対の烽火をあげ「今でも権力を握っている」と誇示している人もいる。こんな人に「国家のために」なぞと云ってもらいたくない。野党も政権奪回だけが目的なのか、補正予算、24年度予算の審議を長くストップさせてしまった。被災地は今カネがいるのだ。TVでの国会中継を見ていると、よくもこんな下らない質問・答弁に時間をかけているものだと感心する。余程暇なのだろう。かけがえのない1年間を空費してしまった罪は重い。
隠れてボランタリー活動を継続してきた芸能人が、この1年間の感想を聞かれ「遅すぎます。遅すぎるが故に死ななくても良かった多くの人の命を奪ってしまいました」と云っていた。重い言葉だ。
(2012年3月12日 記)