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麻雀のルーツを探って③

この辺で本題に戻る。

-大衆に浸透していた博戯-

 寧波市の対外経済委員会の友人の陳炳良さんが、2003年に寧波市駐日経済貿易代表事務所長になった。着任祝いに簡単な夕食会を設営した。
 数週間たったころ、陳さんから「宴席時麻雀のルーツについて聞かれたが、最近寧波に、
中国初の麻雀博物館が開館された。館長に問い合わせたところ、麻雀のルーツを研究した小冊子が博物館より出されたので、一部郵送する」という電話があった。冊子には中国の遊戯ゲーム、博戯の生い立ちを秦朝の頃から詳しく書いてあった。 (理事 栗原道男)

 それによれば麻雀は、明末から清朝初期にかけて、大衆に広く浸透していた博戯「紙牌」「馬吊」を基に、陳魚門(チエン ユイメン)によって集大成された。
以下小冊子の要約を纏めてみる。

 麻雀は「馬将」、「麻雀牌」ともいい、清朝から今日に至るまで、庶民の娯楽道具として、こよなく愛し続けられている大衆ゲームである。
麻雀は「紙牌」と「骨牌」の特徴を融合して生まれた「馬吊」を基とした新しいゲームである。
 当時爆発的に流行していた「馬吊」をベースに「碰和牌」と「黙和牌」の中の「萬」、「索」、「筒」をそのまま継承した。
 又「紙牌」の「紅花」、「白花」、「老千」をそれぞれ「中」、「白」、「發」と改めた。
 その上に、「風牌」四種類を新たに導入した。
 従来の紙牌では、摩耗など損傷が激しいうえに、船上や屋外では風に飛ばされやすいなどの欠点があったため、「宣和牌」の骨牌様式を取り入れた。

 更に、「彩選」(双六ゲーム)の投子(サイコロ)を取り入れた。
 サイコロゲームは双六や数字の出目を競い合う「大小」「丁半」などが唐時代から隆盛となり、現在の六面体となった。材質も焼き物から獣骨が主流となった。
 清代の趙翼の「弦余叢孝」によれば、唐の玄宗皇帝と楊貴妃たちが「昇官図」という双六を楽しんでいたが、皇帝の負けが込んできた。起死回生するには四が出ることだった。皇帝は四・四と大声で叫びながらサイコロを投げたところ、偶然四が出た。皇帝は大いに喜んで臣下の高力士を呼び寄せ、サイコロの四に「賜緋」の恩賞を与えよと命じた。それまでサイコロの数字は一と六のみが赤で、残りの数はすべて黒点で表わされていた。これを機に中国のサイコロは四も赤色に変わったという。

 明朝末期、庶民の間では「碰和牌」が流行していたが、紙牌が120枚もあり煩雑だった。これをより簡素化した博戯「馬吊」[マーテイアオ]が考案され、当初船員や漁民を中心に愛好されていたが、庶民の間にも浸透、爆発的な流行となった。
 清朝の知識人達、とりわけ尤伺は「戒賭文」の中で「馬吊遊戯」は亡国の前兆と社会の狂乱ぶりを戒める警告を発し、奸臣らが国を乱す禍を「馬吊用語」に組込んでいると不吉な予測をした。時が経つに連れ、不幸にもその予測はますます的中していった。
 官僚も庶民も仕事を放り投げ「馬吊」に熱中。中には親が死んでも葬式を忘れるほどの狂乱ぶりであった。
 「馬吊」は紙牌なので欠点も多かった。摩耗や船上や屋外では風に飛ばされるなど改良すべき点も多かった。

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