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麻雀のルーツを探って①

国際化黎明期の体験談-生活に密着した香港の麻雀-

 2004年野村中国投資を退職、三十年もの長きにわたって中国圏での仕事にたづさわる事ができたのも何かの縁であった。
 1974年の4月に香港へ転勤した。当時香港現地法人は野村の出資比率51%の合弁会社であった。現地の株主はアジアの富豪の華僑資産家たちであった。例えば、香港の発券銀行のうちの一行である、恒生銀行のオーナー会長、東南アジア最大の商業銀行であるバンコック銀行のS.陳会長、地元の上海商業銀行のKK.陳会長や東亜銀行の李会長などがいた。 (理事 栗原道男)

 実業界ではオナシスやYKパオと肩を並べる大手船会社のオーナーのF・曹氏やC・F・胡氏など十人ほどの大株主がいた。
 毎年、株主総会が終わるとマンダリンホテルの中華料理で会食会が催された。その後は決まって、湾仔の高級クラブ「五月花」で麻雀の懇親会だった。広東式の麻雀は点棒ではなく札束を置き、上がるたびに現金決済を行う。
 華僑の富豪達が美女を侍らせ麻雀を打つ様は別世界の出来事のように感じられた。
 部屋は高級絨毯が敷かれ、壁面は栗毛色したマホガニー、天井からはバカロビッツの豪華なシャンデリアが照明を絞って吊下げられていた。部屋の中は葉巻の煙香と若い女性のチャイナドレスから漂うほのかな香りが程良く調和され、何とも言えない雰囲気をかもしだしていた。
 部屋の中央にセットされたテーブルライトが卓面の緑に映え、まるで劇画を見ている様であった。
 小生は当時三十歳を少し過ぎた頃で、残念ながら麻雀はやったことがなかった。薫事会の茶坊主さながら、飲茶などの世話をし、迫力満点の現場に居合わせたのは、今思えば、何とも不思議な貴重な経験であった。

 香港現法は現地社員が五十名くらいいた。年に一度の社員懇親会は、旧正月の前夜祭(忘年会)を兼ねていた。社員の希望に沿って、毎回飲茶屋で昼から夜まで延々と続く麻雀大会が定番であった。9時過ぎるころになってようやく表彰式を兼ねた夕食会が始まったが、優勝者は決まって女子社員であった。

 香港では街中の雀荘はあまり見かけない。代わりに、街中の全ての中華料理店で麻雀が出来る。ジャン荘の料金体系は時間制ではない。天井から小ぶりの竹籠(ざる)が吊下げられていて、上がる都度、決済額の5%程度の「てら銭」を篭の中に入れる。これを忘れると強面のお兄さんから注意を受けることになる。
 日本からの駐在員のほとんどが馴染みの料理店で麻雀付きの食事をし、麻雀好きのものが居残って麻雀を楽しんだ。料金と言えばウオッチマン(門番)に1~2香港元(約40円程度)の小費(チップ)をやるだけ済んだ。

 赴任間もないころ、拠点長より「これからは現地スタッフとのより一層の一体感が必要だ。」と言われ、週末はローカル・スタッフとの交流を深めるため、釣りやハイキングなどを企画した。時には彼らの家の近くの「飲茶屋」まで出向き家族と昼飯を食べ、家庭訪問もした。

 当時、香港の日系企業は船会社、大・中商社、都銀三行と東銀、証券会社2社等を中心とし、地味な英国の植民地であった。まだ工業団地やショッピングモールもあるわけではなく、メーカーや小売業等の進出も少なかった。
 銅鑼湾に大丸が出店し庶民の関心を引いていた。在留邦人はバンコックやシンガポールに比べ格段に少なかった。単身の日本人スタッフは、市内に適当な和食店もないことからセントラルにある日本人クラブで、昼、夜とも和食を食べ、各社の社員同士で情報交換を行い、囲碁、将棋、マージャンなどをやりながら慰労しあっていた。ゴルフ場や球場も少なく運動するにはジョギングか水泳、ボウリングくらいであった。

 夜は飲茶屋で簡単な夕食を済ませ、そのまま食卓を麻雀卓に変えゴキブリやネズミの這いまわるフロアで遅くまで麻雀をやっていた。ある時期、こうした小金持ちの日本人駐在員を狙った強盗が頻発し、邦人から金品を巻き上げた。香港警察はマフィア等と結託しているとの噂があり、犯人逮捕は一向に進まない。痺れを切らした日本領事館から「先ず安全は自分で守れ」と警告が発せられた事もあった。

 現地スタッフの家庭や生活環境、通勤状況から娯楽や趣味などに、殆どの会社は無関心であった。働き口が少なかったこともあり求人は選り取り見取りであった。
ある時、経理部長から、産休を取っていた女子社員の家に出産祝いを持って行くので一緒に行かないかと誘われた。
 彼の地はハッピーバレーのリーガーデンホテルの南側で、銅羅湾の裏町にある薄暗い路地の奥の狭いアパートであった。窓から洗濯用の物干し竿が何十本も突き出ていて、路地を一層薄暗くし、ジメジメした不潔感で充満していた。これでは下層階の洗濯物は永久に乾かないのではないかと思った。アパートは十階建てくらいであるが、エレベーターはなかった。
 カビ臭い階段を四階まで上がると、四角い踊り場があり、厳めしい鉄格子付きの四軒の入り口があった。経理部長が呼び鈴を押すと、鉄格子の奥の扉ののぞき窓が僅かに開き、広東語特有の甲高い声で「歓迎、歓迎」と中に招き入れてくれた。
四畳半と六畳くらいの小さな部屋であった。部屋は外見とは裏腹で、小奇麗に整頓されていた。
 厨房と便所、シャワールームは各階共同だった。
夫婦と赤ん坊、母親が二人の計五人暮らしだった。狭いほうの部屋は真ん中からカーテンで仕切られ、両サイドに二段式のベッドが置かれ、母親二人が住んでいた。聞けば奥さんの母親は広東人で、夫の母親は福建人、お互いに英語や広東語、普通語が喋れないので共通の言葉がない。それで、言い争いなど喧嘩も起きないそうである。
 父親たちはマニラとジャカルタに出稼ぎに行ったままで、殆ど十年近くも帰ってきていないそうだ。当時の香港では法律の及ばない現実があり、まだ一夫多妻が色濃く残っていた。夫たちはマニラやジャカルタにも家族を持っているのが常であった。

 我々の訪問の為か、既に蒸し餃子、鶏の足首や豚の耳などの手作りの飲茶が準備されていて、鱈腹ご馳走になった。此の頃は大抵の広東料理は難なく食していた。ただ、広東米と腊腸(ラーチャル、中国式のソーセージ)の混ぜご飯は苦手であった。油と鶏の腸詰の匂いがキツ過ぎて喉に通りにくかった。最後は炊きたてのラーチャル飯が出てきたが、なんとか生力(香港の地場ビール)で流し込んだ。

 丸い食卓は四隅の角を落とせば、マージャン卓に早変わり。件の新妻も麻雀を打ち始めたが、なんと赤子が泣き始めると小脇に抱きかかえ、可愛いおっぱいをポロっと見せながら授乳を始めた。一瞬、目のやり場に困ったが、良く見れば、なんと赤子は右目で母親のオッパイを見ながら、もう一方の目で麻雀パイを見ているではないか。広東人の麻雀の天性の強さの秘密を垣間見せられた感じがした。  -続-

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