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危機管理とリーダーシップ(東日本大震災に思う③)

 東京電力の福島原子力発電所の事故が深刻な影を投げかけている。歴史上稀な大地震と大津波により制御機能が損傷し核燃料が暴走しだしたのだ。放射線被爆の危険に晒されながら懸命な作業を重ねている関係者には感謝したい。しかし、危機管理の観点からは、いくつかの不満がある。原子力は両刃の剣である。エネルギー効率は高いが放射線の危険性は極めて高い。そこで、時期尚早ではあるが今回の対応について考えてみたい。(理事 早川)

 危機管理には、危機が起こらないように備える「リスク・マネジメント」と、起きてしまった危機を如何に速く如何に損害を少なくする「クライシス・マネジメント」の二つの局面がある。

 まず「リスク・マネジメント」の観点からは、本当に備えは十分だったのか?という疑問が湧く。投資理論でのリスク管理は資産の「分散」が基本になっている。俗な言葉の「卵を一つの篭に入れるな、篭を落としたら全ての卵が割れてしまう」と云うことである。今回の事故は想定外の大地震と大津波によって固定電源・非常用電源の双方が使用不可能になったことに起因すると聞く。幸い耐震構造は中越地震の損傷を参考に2007年に補強し、核分裂の自動停止は可能だったという。しかし大津波によって非常用電源が水にかかり運転できない状況になった。なぜ命綱の非常用電源が複数系列ではなかったのか?なぜ同じような場所に集約されていたのか?なぜ離れた場所にも配置しておかなかったのか?「分散理論」の観点からは疑問が残るところである。

 次に「クライシス・マネジメント」の鉄則は、①最悪の事態を前提にその回避に全力をあげる、そのために②指揮系統を明確にし、そこに全ての情報を集約する、③初期段階に最大の戦力を投入する、④緊急時には現場の判断にゆだねる、⑤情報公開を適切に行う、ということのハズである。
 「最悪の事態」とは、「核分裂の活動継続・炉心溶解・圧力容器の損傷・格納容器の損傷・原子炉建屋の損傷」のことだが、原子炉の活動は幸いにして止まったようである。しかし、その後のステップは後手・後手に回った感が拭えない。3月11日に電源の問題から給水が不能になった。それから13日に1号機建屋が水素爆発するまで固唾を飲んでTVを見ていたが、東工大の先生は「水を入れてください」「真水がむりなら海水を入れてください」「内部圧力が高いのなら、ここは水蒸気を思いきって放出してください」と云っていた。「海水を注入すれば廃炉に繋がるがやむをえません」「建屋を海水で満たし冷却を助けるとともに水素爆発の可能性を下げる手もあります」「ポンプ車を総動員してください」とも云っていた。しかし、圧力が安定してきた・内部温度が下がってきた・放射線レベルが下がってきた、などの情報が伝えられるだけで、海水注入は1号機のみ、あとは制御可能と見ていたフシがある。「戦力の逐次投入」は絶対に避けなければならない。ノモハン事件の教訓である。いろいろ困難な状況にあったとは思うが、早期に手当の総動員を行っていたら、別の展開になっていたかも知れない。
 情報公開についても問題があった。確かに放射能に関する情報は、いたずらに不安心理を招くが故に微妙な問題である。しかし、データー計測後かなり経ってから公表するのは「言論統制」をしているのではという疑心暗鬼を生んでしまう。前に書いたように判り易く解説を加えて公表すべきだ。また、風評に脅える原発近隣住民にとってはリアルタイムでの情報公開が何よりも必要なのではないだろうか。更に、高濃度の放射物質が検出された事実を6日間も修復作業員にすら知らせていなかった、ということは許しがたい隠ぺいである。人の命を何と考えているのか、下請け会社社員だったら良いのか、だったら原子力安全・保安院の官僚共々現場で作業すれば良い。その後、その計測データーは間違いだったと訂正を行ったが誰も信じはしない。戦時中の大本営発表が如何に嘘だったかは今の国民は判っている。混乱の極限状態の中での分析であっても、こんな重要な情報を度々訂正されたのでは「改竄」ではないかと疑われてしまう。むしろ、何も信用できないという社会心理を助長した罪は大きい。

 一番問題なのは指揮命令系統である。この処理の司令塔はどこなのか、今だ判らない。福島原子力発電所は東京電力のものである。にもかかわらず、同社の清水社長が公式の場に出てきたのは13日になってから、計画停電の発表を兼ねてであった。遅すぎる。その後は広報担当者まかせ、彼らは寝る間もなく対応しており、その努力は評価するにしても、企業の最高責任者の社長はどこに行ってしまったのか、その後姿を見せない。27日になってようやく同社長は16日から体調不良で入院中と発表された。それならそれで、即座に社長代行を選んで公に出すべきである。事態の深刻さからすれば当然なことである。責任放棄と云われても仕方がない。
 ハーバード・ビジネス・スクールでのリスク管理・企業倫理・リーダーシップの人気ケースは「ジョンソン&ジョンソンでの睡眠導入剤タイレノール事件」である。1982年シカゴ近辺でタイレノールを服用した7人がシアン化合物によって死亡した。同社CEOのジェームス・バークは原因が不明の中、TV等を通じて「タイレノールを服用しないように」「全品回収・引換券による他商品への買い替え」を訴えた。製造は中止され、工場の徹底調査が行われた。その後、実は流通段階で何者かによってタイレノールに毒物が混入されたことが判明したのだが、バーク会長は引き続き「異物混入が不可能なパッケージ開発ができるまでタイレノールを服用しないよう」訴えた。6ケ月後、新商品が発売され、新タイレノールの市場シエアは80%に達した。消費者は「J&J商品は安心だ」と感じた訳である。マスコミはバーク会長を「最も尊敬できる経営者」と称賛したが、彼は「J&Jには「消費者の命を守る」という経営哲学(クレド)があり、それに則った危機管理マニュアルがある、我々はそれに従い行動しただけです」と淡々と述べた。

 電力・ガス・水道などの事業を「公益事業」(public utilities)という。公益であるが故に、行政の規制も強く、また行政を代行しているような感覚になる。競争も少ない。自然と「オカミ意識」「公家意識」になってしまうのかも知れない。今回の計画停電に関するHPを見てみると、自分がどこのグループに入っているのかを探すだけでも大変だ。消費者の気持ちなどどこ吹く風、「電力」というライフ・ラインを提供「してやっているのだ」という意識が透けて見える。
しかし、公益事業とは云え、安穏としてはいられまい。社会の支持を失った企業は遅かれ速かれ限界を迎える。ナショナル・フラッグを自任していたJALが良い例である。事態の収束を見た時点で原子力発電、発電と配電、あるいは東京電力そのものの在り方が問い直されることとなろう。

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