観測史上類を見ない地震、大津波に原子力発電所の事故が重なり、東日本は甚大な被害に直面している。そこでは、日本人の持つ美点と欠点が示されている。大災害に見舞われた地域では略奪や暴動は起こらず、お互いに助け合い、秩序立った避難生活を送っている。一方で、非被災地では買いだめやデマ・風評の類が横行している。群衆心理に弱いと云われる日本人気質もあろうが、どうも、日本人が苦手としているコミュニケーション能力に起因しているようにも思われる。 (理事 早川成信)
これだけの大震災が工場・道路などに何らかの障害をもたらさない訳がない。その点検・補修に時間がかかるのも仕方がない。流通網が混乱するのも当然だが、そのことを早めに周知させれば、買いだめに走る必要はない。製油所の被害・復旧の見通しが出てきたのは、ガソリン・灯油買いだめラッシュが始まってからかなりの日数が経ってからであった。パン・米も同様である。もっともらしい顔でスーパーを視察して「買いだめはしないでください」と云っても何の足しにもならない。情報提供というコミュニケーションの役割を忘れていると云われても仕方がない。
原子力発電所の事故でも同様だ。マイクロシーベルト、ミリシーベルト、ベクレルなどと普段聞きなれない言葉が氾濫した。しかも、年間、1時間、1分、1回と使うものによって異なっている。せめて同じ単位に換算して説明してもらわなければ理解のしようがない。サービス精神皆無と云えばそれまでだが、コミュニケーションは相手に理解してもらって初めて役目を果たすのである。
放射線への注意点として「衣類をはたけ」「窓を閉めろ」「外に干すな」「雨に濡れるな」…などと云われたが、それはどの地域での注意事項なのか、20Kmなのか30Kmなのかそれとも東京なのか全日本なのか。ようやく21日ごろから地域を明示しながら話すようになったが、それまでの間は東京でも洗濯物を外に干す家は少なかった。誰向けに何を云いたいのか明確にしておかなければ、コミュニケーションは混乱を招くだけである。
かつてNHKの元アナウサーから「話し方」の講義を受けたことがある。コミュニケーション(会話)とは「話が会う」ことであり、「相手に判ってもらう努力をする」ことである、ということであった。そのためには
①まず全体像を述べる…何を話すのか、大まかにどうなのか、
②定義を同じにしておく…人によって言葉の定義が異なることもあるし、何となく判ったつもりになっていることもある。後になって誤解と判っても遅い
③結論を初めに云う…大丈夫なのか危険なのか
④大事なことでは「あいまいな」表現はしない
などが重要である、と云われた。
「天地自然は人智を超える」と云われる。今回の大災害でそのことが正に証明された。であるなら、せめて人智を磨き、被害を少しでも軽くしたいものである。