武田知弘氏の近著「ヒットラーの経済政策―世界恐慌からの奇跡的な復興」(祥伝社新書)を読んだ。今日の日本の停滞打破のための多くの示唆に富んだ好著である。以下その骨子を要約する。
(理事 早川 成信)
ヒットラーが政権をとった1933年当時のドイツは疲弊しつくしていた。第一次世界大戦(1914~19年)で国力を使い尽くし、その敗戦国としてベルサイユ条約の下、植民地のすべてを取り上げられ(領土の13%、農耕地の15%、鉄鉱石鉱床の75%、人口の10%を失う)、膨大な賠償金(約330億ドル、税収の10数年分)、最大の工業地帯ルールをフランス軍が占領(23年)、国内生産不振・輸入品不足と膨大な財政赤字・通貨下落による天文学的なインフレ等々・・・それでも稀代の財政家ヒャルマール・シャハトのレンテンマルク(土地を担保にした国債)をテコとした諸施策によって20年代半ばには束の間の安定を取り戻し、米国などからの直接投資も回復していた。しかし、1929年から始まった世界大恐慌によって、ドイツは再び奈落の底に落ち込んでしまった。
こういう状況の中でヒットラー政権が登場したわけだが、わずか3年間で、世界で最も早く不況から立ち直った。たとえば
(失業者数) (工業生産指数) (乗用車) (紡績)
1929年 190万人 100.0 100.0 100.0
1932年 558万人 53.3 31.4 86.6
1936年 159万人 105.3 149.4 106.5
このように短期間に、(歴史書に云われているのとは異なって)軍事支出に頼らずに、経済回復を成し遂げたのは何故なのか、その秘策を探ろうというのが、本書の眼目である。
効果絶大な公共事業
ヒットラーは1933年1月30日に政権を樹立させるや、その2日後に「第一次4ケ年計画」(公共事業による失業問題解消、価格統制によるインフレ抑制、農民・中小手工業救済などを骨子とする)を発表、3ケ月後にはかっての経済復興の英雄シャハトが国立銀行総裁に復帰、5月には「アウトバーン建設計画」を発表など、矢継ぎ早に政策を打ち出した。「時間との勝負」を認識し、ドイツ国民に「ドイツは変わる」との印象を与えようとしたものである。
アウトバーン建設を核とする公共事業の特色の第一は「かってない規模」を「一気呵成」に行ったことである。以前の公共事業の規模は、総額で3.2億マルクに過ぎなかったが、ヒットラーは初年度から20億マルクという巨額な予算を計上した。短期・集中的に投資されれば、その効果は大きい。小出し・追加という「官僚的」な発想とは根本的に異なり、その効果も決定的に異なる。
第二の特色は、公共事業を「失業対策」と明確に位置づけ、建設費のうち実に46%が労働者の賃金に充てられたことである。買収する土地は、公共事業計画が決定したときの値段が基準とされ、投機の対象にならないよう工夫されている。つまり、労働者=低所得者は賃金のほとんどが消費に回され、景気を刺激するという「乗数効果」を見越して、資金配分をしたということである。投資vs効果を予め読んだ政策実施と云えよう。
第三の特色は「アウトバーン建設」という副次的効果の多い事業が選択されたことである。時あたかも「モータリゼーション」のはしりの時期であった。そこに大動脈が建設されたので、自動車販売台数も道路建設に呼応する形で飛躍的に増大した(1932年―4万台、33年―7万台、36年―21万台)。ドイツ経済にとって、もっとも必要なものが、もっとも必要な時期に作られたということである。今日の日本のダム・地方の高速道路建設などとは決定的に異なっている。
第四の特色は、国民への宣伝を徹底的に行ったことである。かのゲッペルスが担当し、国民に「ドイツは復興に向かっている」と喧伝した。本来、景気は心理的要因が大きく影響する。この先安心してよいとの自信を得られれば人は安心して物を買う。ヒットラー・ナチスはこの点を十分にわきまえていたようである。
大幅減税
ヒットラーは政権をとるや、国・地方の税収の1割にも相当する大減税を行った。減税規模もさることながら、注目すべきは減税項目である。すなわち、自動車税・農産物売上税・農地の土地税・住宅の土地税などの減税、メイドを雇用した場合は所得税から控除、設備投資減税、家賃税の引き下げ、失業保険料の引き下げ、など、減税のほとんどが消費や投資を促すとともに生産の増加につながる景気対策となっていることである。この結果、景気回復は加速化され、減税にもかかわらず税収は、33年51億マルク、34年59億マルク、35年75億マルクと、景気回復とともに増加している。失業者の減少によって、所得税を納税している者も33年の34%から36年には57%に増えている。つまり「損をして得を取る」で、レーガン税制ではないが、減税⇒景気回復⇒消費・所得増加⇒税収増加につながったわけである。日本では、景気回復もないのに「いずれ消費税を引き上げる」と云っているが、これでは、投資・消費もナエテしまう。
巧みな雇用政策
雇用政策でも、きめ細かい工夫がなされている。例えば、工場などで欠員が出た場合、「妻や子供がいる中高年」を優先的に採用するように決められた。一家の大黒柱を雇用すれば、とりあえずその一家は飢えずにすむ。社会心理上でも安定につながるし、扶養家族の多い失業者が減ることによる社会保障の負担軽減にもつながる。
都会の青年は半年間の農業支援活動が奨励され、彼らは職業紹介失業保険局から若干の給料が支払われた。農家の労働力不足対策(=農業生産増)とともに、都会部で失業者が多かった青年の非行防止のも役立つとの考えである。どうせ「失業手当を払うのなら、別の形で金を有効に使おう」ということである。「一石二鳥」の考え方が徹底されている。
少子化対策も失業対策と「一石二鳥」の形で使われた。当時失業者が多く、結婚できない若者が多かったのだが、ナチスは「結婚資金貸付法」を導入した。お金のない人が結婚するときに1000マルク(労働者の約半年分の賃金に相当)を無利子で貸し付けるが、子供を1人産むごとに返済金の1/4が免除され、4人産んだ夫婦は全額返済免除となった。但し、この制度を受けるためには、結婚した女性は仕事を辞めなければならない。つまり、女性を結婚退職させ、男の雇用に代替させ、男の失業を減らそうというのである。付け加えるならば、この貸付金は現金ではなく「需要喚起券」という証券で支払われ、何か物を買った初めて役に立つ。ここでも、経済活性化の知恵が使われている。
優れた労働者政策
ナチスは「ストライキの禁止」や「労働組合の解体」などを行った。しかし、労働者の環境改善に先駆的な施策を導入し、「労使が助け合う」体制ができた側面も忘れてはいけない。たとえば、
① 労働者の代表が、経営者の意見を取り入れて調整する「信任委員会」の設置義務。労働裁判所も世界に先駆けて設置された。
② 「8時間労働制」「有給休暇制」「格安な社内食堂の設置義務」「時間内レクレーション制―例えば労働時間内でのスポーツ・タイム」など
③ 豊かな生活。海外旅行を奨励し(国営の旅行代理店、国有の旅客船まで保有)、格安な国営のリゾートビーチ建設など、インフラつくりを同時に行った。何事も徹底するのがナチス。
④ 労働者向け住宅開発・・・住宅ローンの充実/家庭内菜園の奨励(庭が広い宅地)。郊外の開発とアウトバーン利用促進、農産物不足解消など、「一石○○鳥」を狙い、実現した。
⑤ 国民の健康維持・・・・医療費や社会保障費の削減の狙いもあった。具体的には、労働者の定期健康診断制、食品の合成着色材使用制限、アスベスト使用制限など、肉食節減の啓蒙運動・禁 煙運動などのメタボ対策も行っていた
⑥ 財形貯蓄制・・・共済への積立金は所得税の控除対象、かつ金利は無税
など。その根底にある考えは、労働者が不満を抱くのは、金持ちと自分たちの生活の格差に対し てである、労働者も金持ちと同じ様なレベルの生活ができるようにすれば、不満は解消されるハ ズである、というものである。
シャハトの錬金術
これらの経済政策の多くを発案し、資金面で実行したのが天才財政家シャハトである。とにかく、ヒットラー政権成立の時期には、財政をふかしたくても金がなかった。これを魔術師的な、悪く云えば詐欺師的なアイディアで、上記の諸策を実行したのである。その核心は「金本位制からの脱却」と、今日の欧州通貨「ユーロ」的な「共通通貨の普及」といえる。
シャハトがまず行ったのは「労働手形」制度である。①労働力を持つ事業者が、その労働力に応じた手形を発行する、②その手形を自治体などが受取り、③銀行で割り引いてもらう、④そうして入手したお金を使って自治体は公共事業を発注し、⑤事業者にお金を還流させる、という仕組みである。労働手形はドイツ帝国銀行が保証しており、国債に近いものである。これに似たものとして「納品債」(商品を生産した量に応じて発行される手形)や「租税債」(この債券を購入すれば納税したのと同じとなり、若干の金利もつく)など、「金を裏付けにしない」多様な信用創造を行った。
シャハトは軍備力増強にも「マネーロンダリング」的な仕組みを考えた。「メフォ社債」というもので、①まずメフォという幽霊会社を作る、②ここが利率4%、5年満期の社債を発行し、③クルップなど主要軍事メーカー4社に分配、④これらメーカーが兵器を製造した際、下請けメーカーへの支払いにメフォ社債を充てる、⑤下請けメーカーはメフォ社債を償還して現金化しても良いし、手元に持っていて4%の利息を受け取ることも出来る、というものである。ドイツ帝国銀行の保証付きなので、債券市場で人気商品となった。
未完に終わった「欧州経済秩序」
対外的には、いかにドイツの輸出を回復させるかが、シャハトの最大の任務であった。彼は33年6月に「ニュープラン」と呼ばれる「新貿易決済システム」を導入した。これはドイツが背負っている公的機関・民間企業の対外債務をドイツ帝国銀行が一括管理するというもので、預かった返済金の50%は現金で支払い、残りは「特別マルク」で支払われる。「特別マルク」とは一種の商品券で、ドイツ旅行で使える「旅行マルク」や、ドイツへの投資やドイツ商品の購入ができる「レジスター・マルク」、ドイツ国内の人や党の支援に使える「アスキ・マルク」などがあった。「背に腹は代えられぬ」とは云え、ルール違反もはなはだしいアイディアではある。
さすがに海外の抵抗は大きく、ドイツの輸出は大きく落ち込む。そこでシャハトは極端な輸入制限、輸出振興を行う。10億マルクの輸出振興基金を設立し、輸出事業者に補助金を与え、これによってドイツ輸出企業の価格競争力は著しく高まった。これに対し、イギリス、フランスなど欧州先進国の反発は強く、「反ドイツ貿易」的な動きも強まってしまい、先進国以外の貿易相手を探さなければならなくなった。
しかしながら「捨てる神あれば拾う神あり」で、人口7000万人のドイツは魅力的市場である。特に膨大な対外債務を抱える・・・従って「外貨決済ができない」・・・東欧諸国や中南米諸国にとっては、「物々交換」は望むところであった。「特別マルク決済」を行う「ドイツ広域貿易圏」のようなものが出来あがっていったのは「不足同志で利害共通」の結果といえよう。
「良いとこ取りの経済政策」
以上縷々述べてきたのが、1933年から36年にかけてのヒットラー=シャハトの経済政策の骨子である。その真髄は「資本主義と共産主義の良いとこ取り」であったといえよう。もちろん独裁体制であったからこそ、思い切った手が打てたのだが、「資本主義は、個人の自由な発想を取り入れることができ経済の効率的発展につながる、しかしただ利己を追い求めるだけで深刻な格差が生じれば、階級闘争に発展し、かえって社会的には不経済になる。個人の創意工夫を活かしながら、階級のいがみあいが生じないように富の再分配をすれば、それが理想的な経済体制になる」とシャハトは述べている。今日の「修正資本主義」と相通じる考え方であろう。
その後36年にヒットラーは自給自足体制作りを狙った「第二次経済計画」を発表するが失敗する。さらに徐々にシャハトを煙たがり遠ざける。そして、経済的に行き詰まったのか、38年以降は狂ったように対外侵略に走り、破滅への道を歩むことになる。
日本への示唆
ひるがえって我が国は「100年に一度」とも云われる世界的な金融・経済危機の真っただ中にある。外需頼みの経済構造であることから、各国の需要減退の影響をモロに受け、先進国中、最も景気の落ち込みが大きいものになっている。こうした混迷脱却に向けての経済対策で何が必要であろうか。上記のヒットラーの経済政策に大いに学ぶものがあるように思われる。
① まず、景気対策は、「すばやく」「大規模に」「一気に」「時代の要請に応じた領域」に行うべきである。モタモタしていては効果は半減する。何にも増して、国民の将来に対する自信・安心を醸し出 すような施策を徹底的に「これでもか」というくらい実施すべきである。
② 次いで、景気対策は最も効果が見込まれる=消費・投資に直につながるような、言うなれば「コスト対効果」を常に念頭に入れて行うべきである。たとえば、今日本では、生産・在庫調整を終 え、設備調整に入ろうとしている。どうせ企業が生産体制の再構築するのであれば、大規模な設 備投資減税を行い、最先端の最効率の設備導入を促進させたらどうだろうか。将来の競争力向 上のみならず、短期的にも設備投資の活性化が確実に期待できる。
③ 消費も低迷している。政府は、住宅用太陽光発電、エコ関連電器商品、自動車などの購入に支援を行っている(しかも商品券に近い形で)が、いずれ必要となるものを振興し、生産増にもつなげ ていくという意味では、評価してよかろう。
④ 人口の減少・老齢化が進む将来、いつまでも、外需主導型の経済構造を続けることは不可能である。製造業の研究開発型化、農業・林業の復活、サービス・セクターの充実など、内需主導型 経済構造への布石を更に大規模に行うべきである。
⑤ 何よりも、「経済は心理的なものである」ことを強く再認識すべきである。今一番お金を持っているのは60歳以上の世帯である。総務省調べの年齢別1世帯当たりの資産額は
30歳未満 30-39歳 40-49歳 50-59歳 60-69歳 70歳以上
総金融資産 341万円 644万円 1092万円 1610万円 2159万円 2211万円
負債 349 856 944 591 275 185
実物資産 1361 2612 4184 5275 5874 6112
(住宅など) (2004年時点)
となっている。高齢者が大きな資産を持ちながら、消費を手控えているのは、年金・医療制度など に不安を感じているからである。医療技術は長足に進歩しているので、お金を使い切ってもまだ生 きている「長生きリスク」におののいているのである。この層の貯蓄を解放すれば、経済は全く別 の景色となりうる。社会福祉制度の抜本的改善が望まれるゆえんである。
⑥ 我が国の財政状態は良くない。その中で経済対策を打たなければならないのであり、何にもまし て、「なけなしのお金」をどう使えば最も有効なのか、どうせ使うなら「一石二鳥、三鳥」の手はな いのか、ぎりぎりのところまで知恵を使うべきである。
ヒットラーを礼賛する気はさらさらない。しかしながら、政権初期において、国民に安心と自信を与え、多くの国民の不満を解消し、国民一体となってドイツ再生に取り組むような下地を作った経済政策は、高く評価されてしかるべきだろう。