1980年代の初頭、米国は苦境に喘いでいた。経済の低迷(80年1月山→80年7月谷→81年7月山、の短期間の景気変動)にも拘わらず、石油危機で拍車をかけた超高インフレ、高失業率、米国企業の国際競争力の低下、結果としての巨額な貿易赤字・・・・・株式市場は1966年にダウ平均が初めて1000ドルの大台に乗せてから16年間にわたり750-1000ドルのボックス相場に終始し、投資家は離散、ビジネス・ウィーク誌は79年8月に「株式の死」という特集を編んだほどであった。時のFRB議長ヴォルカーは堅い意志のもと超引き締め政策を展開、金利は高騰、流動性も細り、お庭先のメキシコの経済危機、コンチネンタル・イリノイ銀行の破綻などの副作用も顕在化した。
㈱エグゼクティブ・パートナーズ
(理事 早川 成信)
このような「真っ暗闇」の中、82年8月、ニューヨーク株式市場は突如急騰を始めた。個人投資家が株式購入に走り、「賢明な機関投資家」は当初冷ややかだった。しかし、暴騰が一向に収まらない状況を見て、彼らも「乗り遅れてはならない」と株式購入に殺到しだした。のちに「ウォール街のスタンピード(物音に怯えた牛の暴走)」と称された現象である。株価は急騰を続け、11月には73年の史上最高値を更新、その後の長期上昇相場のプレリュードとなった。
投資家は何を予見し株式購入に走ったのだろうか。米国の株式市場は、景気のボトムの4-6ケ月前に大底を打つ法則性を持っており、景気も確かに、82年11月をボトムに、90年7月ピークまでの長い景気拡大に繋がった。しかし株式市場は、16年間の長期ボックス相場を脱却し、突如、800ドルから3000ドル、しいては10,000ドルまでの長期上昇相場に転じたのである。余程のことを予見・予感したに相違ない。
今振り返ってみると、その後二つの重要なことが起きている。マクロ面では「インフレ経済」から「ディス・インフレ経済」への変換である。ものの値段が落ち着けば(インフレからにせよ、デフレからにせよ)金融資産が相対的に魅力を増すことは歴史が示唆するところである。ミクロ面では米国企業が国際競争力を着実に回復させたことである。実は70年代終わりごろから米国企業は、リストラクチャリング(事業構造の再構築)、BPR(事業プロセスの再設計)などに取り組んでいた。日本企業が模範であったことは想像に難くない。つまり「株式は仮死状態」であったが「企業は活きていた」のである。
長期上昇相場に入った米国では、その後三つの注目すべき出来事があった。第一に、米国企業は、80年代に入り、更なる多国籍化、高付加価値化、サービス・ブランドなどのソフト面での強化、によって収益力を著しく高めた。
第二に、マイクロソフト、ジェネンテック、シスコなどのベンチャー企業が輩出した。これら若い企業の成功は、ネット社会創造など産業・社会構造の転換を促進し、企業の新陳代謝、企業家精神の鼓舞、育成機関としてのVCの隆盛などに繋がった。
第三は、M&A戦略の再評価。80年代半ば、ウォールでは石油企業を巡るM&Aが多発した。ガルフ、コノコ、ソハイオなど多くの石油企業が、競争相手の国際石油企業に買収されていった。買収の論理は明快である。「石油企業として埋蔵を積み増すのは必然である。しかし、油田を探査し掘削し開発するのはコストもかかり千三つである。ところで、ウォール街をみると膨大な埋蔵(を持った企業)が安値で放置されている。自分で開発するコストと時間より余程リスクが少なく投資も少ない」・・・この考え方は、その後LBOの隆盛に繋がっていくのだが・・・
今世界は、米国発の金融危機とそれがもたらした世界同時不況に脅かされている。企業は環境の激変への対応で、立ち竦んでいるようにも見える。しかし「夜明けを迎えぬ夜はない」。そろそろ、Beyond the Crisis の姿を描いて行動すべき時ではないだろうか。