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2. 茶の話

会食前後の飲茶もまた楽しいひと時である。中国の茶は数千種類あると言われている。
地方によって異なるが会食前に烏龍茶や鉄観音、緑茶、普洱茶それに各種花茶など軽い会話を交わしながら喫茶する楽しみがある。

印象深いのは潮州菜館で出す極濃の鉄観音茶である。鉄観音茶の飲み方は、急須の中に茶葉を沢山いれ熱湯を注ぎ一度捨てる。2度目に熱湯を入れたら茶がブランデーのように濃くなるまで待ち、小さな盃に熱い茶を溢れるまで注ぎ入れる。慣れないと苦味を感じ飲みにくい。白酒を飲むように一気にのどに流し込むと、苦味のあとにほのかな香りと甘味が残り、食欲を増進させてくれる。
まるで洋食のアペリテイフのようなものだ。
                                          ㈱エグゼクティブ・パートナーズ
                                            (理事  栗原 道男)

茶については1900年初頭に岡倉天心がアメリカで出版した「茶の本」が詳しい。
この本は横浜の骨董屋の息子として生まれ、若くしてフェロノサに師事し、後に初代の芸大の学長になった岡倉天心が「茶の湯」を紹介しながら日本人の精紳と文化、芸術の原点である、「ワビとサビ」について英文で欧米に広く紹介した書物である。香港勤務時代、本社の役員さんから暇を見つけて読んでおきなさいと原書を頂いた。正直言って大変難解な本で暫く積読状態にしておいた。やがて対訳つきの本が出版されたので購入した。この本は今でも書棚に鎮座し、時たま眼を通す愛読書の一つとなった。

茶樹の原産地はインド、東南アジア、中国南部の800~1000メートル位の高地で多雨多湿の山岳地帯に生息する低木と言われているが、雲南省では高さ32メートルにも達する巨木が発見され「茶樹王」と呼ばれている。

中国における喫茶の起源は神農から始まる。その後、茶は禅宗の薬草として重用されていたが、当初は茗(tu)と呼ばれていた。後に「茶」になり福建から英国に輸出する時、福建語の発音から英語ではteaと呼ばれるようになった。唐時代になると詩人で、後に茶聖と呼ばれた陸羽(りくう)によって体系化され、喫茶の習慣が明確化され貴人、文人や富裕層に広まった。陸羽は茶樹の栽培から茶葉造り、茶具、茶器、嗜み方までを、全三巻十章に茶経(tea bible)として纏めた。上海博物館にはこの古本が収蔵されている。

茶は日本に遣唐使が持ち帰り、729年頃聖武天皇が茶会を開いた記録がある。801年に最澄が種子を持ち帰り比叡山で栽培した。1191年に禅宗の留学生僧の栄西禅師が、浙江省天目山の近くの龍井の茶種を持ち帰り、宇治などで栽培した。ちなみに天目山の麓には禅宗の寺や僧坊も沢山あり、近くの窯で焼造された茶碗を使っていた。これを留学生僧たちが記念品として日本に持ち帰ったのが窯変「天目茶碗」として知れ渡った。

南宋時代なるとそれまでの淹茶(だしちゃ)から緑茶を石臼で粉にし、茶筅で攪拌し泡立てて喫する抹茶(ひき茶)が流行、天目茶碗は抹茶の濃緑色の泡を際立たせる事から愛好された。

明時代になると抹茶が廃れ煎茶が流行し、白磁や染付け、紫砂の茶器となった。残念ながら現代中国の喫茶の方法では抹茶は殆ど廃れてしまった。天目茶碗についても日本人観光客以外にはほとんど人気がない状態である

茶器では江蘇省の宜興の紫砂で造った茶器が煎茶に良く合い、古くから粋人に珍重されている。宜興は無錫から太湖の畔を車で一時間ほど走った所にある窯業の鎮で、景徳鎮と双璧の焼き物の町である。市内の立派な博物館には年代物の茶器などが所狭しとばかりに陳列されている。博物館の学芸員の説明によれば、初期の急須は大変小ぶり、大きさは両手の中にすっぽりと入ってしまうほどである。これは茶碗を使わず直接口に差し込んで飲んだ名残で、病人用水差しを連想させる。宜興の茶器は特産の紫砂を用い、焼くと表面に小さな目に見えない孔ができる。茶器を使えば使うほどそこに茶のうまみが溜まりコクが出てくるそうである。香港やマカオの茶具店や骨董屋では、日本の瀬戸物の茶器のような、小さな急須が数万ドルの値段で売られており、我ながら信じ難い思いをした事がある。

1995年頃、所用があって福州大学を訪問し、茶道部の女子学生のお持て成しを受けた。中国では日本の茶道ほど形式にはとらわれない。むしろ茶器を暖める為に無造作に熱湯を茶器に注ぐなど、自由奔放に振舞っているようにえるが実際は左にあらず。きちっとした手順で黙々と作業を進めていた。中国茶道ではまず茶葉の形状を目で楽しみ、香りを鼻で楽しむ。最後に茶の風味を舌で楽しむのである。妙齢の女子学生がチーパオを纏い、小ぶりな湯飲みを両手で持ち、両肘を上げ、鼻の前で左右に動かし、香りをかぐ仕草は如何にもあいくるしく優雅であった。帰途、校内の外来者用売店で福建鉄観音、烏龍茶をタップリ購入する羽目になった。

ある時、在上海日本人商工クラブ三資企業部会の会食会時にゲストスピーカーから世界政治を動かす茶の話を聞いた。アメリカ建国のきっかけは本国の大英帝国の搾取を嫌い、アメリカへの紅茶輸送船をボストン港で焼き討ち、これをきっかけにアメリカ独立運動が始まったと言う。

その大英帝国は中国から茶を輸入しすぎ、大量の銀が国外へ流失し国家財政に重大な影響を及ぼした。
この貿易のインバランスを帳消しにする為にインド近辺でアヘンを生産し清国に持ち込み清国を混乱に陥れた。その結果清朝は林則徐を派遣しアヘンの輸送船を撃破しアヘン戦争が始まり、南京条約などにより上海や香港など一連の租借地が誕生、やがて清朝は衰退、滅亡し中国は1949年の新中国誕生まで長い混迷期に入って行く事になる。

北方の巨人モンゴル帝国においては、遊牧生活の為農園を持たず、生鮮野菜の摂取は最大の課題であった。特に長い厳冬期における生活にはビタミン不足を補う食材の確保が死活問題であった。これを解消する為の最適な食材が半醗酵した煉瓦のように押し固めた「煉瓦茶」であった。煉瓦茶は長期間の保管にも携帯や持ち運びにも大変便利であった。彼等は馬乳に煉瓦茶と少量の岩塩を入れ煮込んでから「淹茶」(だしちゃ)として飲んでいる。味は濃いミルクテイに塩を入れたようなもので散歩やゴルフなど軽い運動したあとには美味しく飲める。この茶の飲み方は現在でもモンゴルはもとより、ロシアやハンガリー、北欧国などに残っている。成吉思汗が金王朝を征服した一つの理由もこの茶葉を手に入れる為であったという。中国北方の方言で結婚する時の結納金の事を「茶金」と言う所があり、古くから茶は生活の貴重品であった。

ちなみに昨今、上海では白領族中心にダイエットと目の保養に良いお茶としてプーアル菊花茶を飲むのが流行っている。仄かな菊の香りと脂肪分を流し落とすと言われているプーアル茶のほろ苦さが爽快感を与えてくれる。是非お試しあれ。 

-完―


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