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3. 中華料理の楽しみ方(その1)

<はじめに>

現代中国の食のbibleと言われる「中国食経」が1999年2月に出版された。
上海市飯店協会会長であった任百尊氏の主編で、当時の中国割烹、医薬、文化、学術界の専門家や大学教授など15名の編集者の下で、1994年5月から約5年の歳月を掛け、全11編(総論、食史、食論、食料、食芸、食珍「上下」、食俗、食礼、食事、食典)及び中国烹飪大事記、歴代(夏~民国)名菜及其起源、中国現代食書名録など全11の付録、百八十万八千字に及ぶ中華料理の叢書が完成した。
                                         ㈱エグゼクティブ・パートナーズ
                                               (理事  栗原 道男)

任氏の風貌は大柄で色白、何時も穏やかな笑みを浮かべ、見るからに上海の大老板(大旦那)であった。
彼は当時、中国で北の北京飯店と常に1、2を争う超高級ホテル「錦江飯店」の総経理に長らく就いていた。父君が民国時代の神戸総領事であった事から、神戸高商で学び日本語も堪能であった。
そんな経歴が災いしてか、文革時代は大変ご苦労されたようだった。

野村グループは上海錦江連営公司の所有する錦江クラブ(旧フランススポーツクラブ)を上海市から貸与され、ガーデンホテルの建設に着手する事になった。
任百尊氏は合弁契約締結まで、厳しい交渉を何度も行った手ごわい相手でもあった。
交渉成立後は本当によく面倒見てもらった。
工事中や開業準備期間中、雨あられと降り注ぐ難問に対し、相談に行くと何時も嫌な顔一つせずに話を聞いてくれた。
任氏は「中国は古くて若い国だ。まだ近代的な法制など出来上がっていないが、規制が出たからといって慌てる事はない。中国の四方院と同じで入り口は正面玄関だけではない。側面からの入り口や裏に行けば勝手口もある。解決方法は色々ある。上に政策あれば下には対策ある」と率直なアドバイスをしてくれた。我が中国ビジネスの師であり大恩人であった。
しかし、国賓の接遇やら、多忙な業務を長く担当していた上に、文革時代の心労もあってか、心臓疾患が進行し、入退院を繰り返すようになってしまった。
任氏の執務室は錦江飯店の別棟、西楼の2階の清楚なたたずまいのなかにあった。晩年は総経理室応接間の籐椅子の傍には酸素ボンベが常設され、外出時は携帯用酸素ボンベを車に積んでいた。
94年に総経理を退任し、残りの人生は中国のホテル、飲食、旅游業などに従事する後輩の育成と中国のサービス産業の発展の為に捧げたいと言っていた。
その成果が「中国食経」であった。

「食経」の前書に人類で最も早く火を用いたのは、今から約50万年前の北京原人であると書いてあった。北京の西南の盧溝橋(日華事変の口火を切った戦闘がこの橋の近辺で勃発した)の先にある、周口店の洞窟で、北京原人の住居あとが発見された。
現場は川からやや離れた小高い岡の中腹にあり、砂礫岩の洞窟で火を使ったと思われる焼け焦げた土が今でも見られる。付近からは沢山の動物や魚貝などの化石も発掘され、博物館に展示されている。
爾来、中国の食文化は文明の発展とともに研究研鑽され、食材や調理方法はもとより、色、香、味、形、滋養に至るまで発展し続けてきた。
中国大陸、台湾双方から国父と慕われている孫中山先生は「烹調之術本於文明而生、非深孕乎文明種族、則烹調技術不妙」(割烹の技術(調理術)は文明から生まれるもので、深く文明を孕んできた民族でなければ割烹も妙を得ないものである。)と言っており、食は文化のバロメーターである。けだし名言である。


余談であるが上海時代、朝日新聞上海支局長で推理小説作家の伴野朗さんが同じアパートに住んでいた。彼が文壇にデビューし、江戸川乱歩賞を受賞した処女作が、北京原人の化石紛失事件を取り上げた「50万年の死角」であった。
伴野さんとは車座になって夜中まで度々痛飲した。
同じ屋根の下の日本人駐在員数人も加わり、遅々として進まぬプロジェクトや契約不履行など、愚痴や怒りに苛立ちながら、蛮声を張り上げ軍歌や懐かしのメロデイを歌いまくって、鬱憤を晴らしていた。
当時まだ著作権や知的所有権など全く取り上げられないような環境であった。
ある晩、彼が事のほか怒りまくった事があった。
街の書店に行ったら、俺の本の中国語の海賊版が出版されていた。訳者の推薦の言葉に「日本人にしては史実を良く調べ上げている。内容もマーマー面白い」というような書評があった。
伴野さんにすれば、翻訳の許可や著作権の相談は全くなかった上に、マアマア良く出来ているとはどういうことだ。出版したなら、挨拶くらいしに来ても良いだろうと、怒り捲くっていた訳である。
挙句の果て、本屋にあった全ての在庫を段ボール箱ごと買ってきて、我々に配ってくれた。

そんな事を思い出しながら、北京原人博物館に隣接する売店に立ち寄ってみた。
売店は天井から裸電球がつり避けられた寒々とした所であった。目を凝らしてみると案の定、薄暗い部屋の一番奥の片隅にある、埃を被って白くなった書棚に、例の中国語海賊版「五十万年的死角」が数冊無造作に放置されていた。値段を見ると一冊7角だった。

① 調理人

中華料理のメニューは漢字で書いてあり、一般的に日本人ならば洋食レストランで注文する時ほど神経を使わない。しかし中華料理の調理方法は多様であり、その内容までいちいち理解した上で注文出来る人は少ない。
香港勤務時代(1974~84)社業は拡大に次ぐ拡大で、ほとんど毎晩中華料理の会食であった。
行きつけの菜館の老板(主人)に人数とおよその金額を言えばあとは任せである。
そんな訳で、何時になっても料理の内容やメニューなど、全く興味がなかった。
しかし、これではいくら旨いものを毎日食べられるといっても、ブロイラーの鶏と一緒で、精々10日程度が限度で、その後は接待が苦痛になってしまう。
要は中華料理に興味を持たないと毎日が苦痛の連続になってしまう事だ。
赴任後の緊張と昼間の業務が多忙な上に毎晩接待で疲労困憊していた。
合弁パートナーの一人である大手船会社の老板に「最近業務多忙であるが、日本からの派遣社員が少なく毎晩手分けして接待し宴席で中華料理ばかりでは体が持たない。接待を控え本業に専念したい」旨相談した。

彼は「昼も夜も仕事の重要性は同じだ。むしろ食事しながらの方がより親しくなれる。
ビジネスの面談中では話題にならないような裏話や、お客様の家族構成、出身地、生活習慣や趣味など色々な情報が入り易い。
要はどんな事にも好奇心と興味を持つことだ。その土地への新参者には沢山の困難や理解しがたい事が多いものだ。先ず楽しみを見つけなさい」と言われた。

幸いな事に現地の経験豊富な先輩がおり、親切に菜館の選定からメニューの読み方、宴会メニューの作り方まで教えて頂いた。
彼は宴会も重要な仕事の一部だと言われ、目から鱗が落ちた瞬間であった。
それ以降、お品書きのファイルをレストラン毎に作り会食の相手先、各料理の味と特徴、食感など克明にメモした。
数ヶ月で主なレストランの名物料理や隠れた名品などおおよそ把握出来るようになった。

しかし、ある時同じ店でいつもと同じ料理を注文したが、味も食感も色彩もなんとなくいつもとは違う料理が出てきた。体調がおかしいかと自問したが酒は美味しかった。
埋単(勘定書き)を見たが代金はいつも通りであった。
翌日、会社の中国人幹部にこの話をしたところ一笑に付された。
彼は「一つの店に腕利きの厨師(シェフ)は何人もいる訳ではない。一見の客が注文すると、弟子が料理作る事はよくあるケースだ。いくら有名な店に行っても常に美味いいとは限らない」との事であった。
以後、会食をやるたびにキャプテン(黒服・マネージャー)を呼び、予めお願いしておいた料理の確認と当日の要求を伝え、終宴後は料理の感想を手短に伝える事にした。
こうする事で、顔と名前を覚えてもらう事と料理にうるさいヤツだ、と印象付けし、合わせて服務員との関係学(コミニケーション)を重視し、老朋友作りを心がけた。

厨師(シェフ)は普通5~6人一組で待遇の良いレストランを渡り歩く。
総てを采配する厨師の他に、鍋、包丁、焼き物、洗い、点心、場合によっては服務員(給仕)もついて回る。完全な徒弟制度で、この仲間内以外の厨房のスタッフには一切技を教えない。覚えたければ盗めと言う。
中国国内の調理水準やサービスは十数年前と比べ、雲泥の差があり、格段にレベルアップしてきた。
香港やシンガポール、台湾からの出稼ぎ調理人があちこちで活躍しているが、厨房の中国人スタッフへの技術伝播は遅々として進まない。
ホテルや大型のレストランの場合、労働法により勤務時間制限が厳格に守られていた。

ある時、香港からスカウトしてきた腕利きのシェフからクレームが来た。
彼は中学卒業してすぐにコックの弟子入りをした。
丁稚奉公時代は毎朝4時半に起き、材料を仕入れ、食材の洗い、下こしらえ等調理の準備をする。夜は店を閉じてから厨房器具の磨きをやりながら、調理器具や器に付いた残り物で先輩の味を盗み厨房の掃除までやった。
寝るのはいつも12時過ぎだった。寝る時間などほんの4~5時間しかなかった。
寸暇を惜しんで、粉骨砕身、調理を覚えた。
そして香港の中環(セントラル地区)の五星級ホテルMのシェフまでやった男だった。
しかし最近、彼は人事部長から我が耳を疑うようなナンセンスな要求突きつけられて困っていた。彼は私の手元にいる中国人スタッフの待遇について「勤務時間は8時間以内、残業は月30時間以内で絶対に超過勤務はやらせてはいけない。調理の技を早く習得させろ」と要求している。

調理長の言い分によれば、「コックは事務員ではない。睡眠時間を削ってでも仕事に集中させたい。8時間労働、これではコックは育たない。技は教えるものではなく習得したければ努力しろ、
ボーと見ているだけの人間には研究心も向上心もない。心ここにあらずんば、美味い料理など作れるわけはない。これではまともなサービスは提供できない」と言って次の契約更改に応じず香港に帰ってしまった。

この厨師は料理が出来上がり次第すぐに、お客様のテーブルに出さないと服務員をどやしつける事でも有名であった。
新入女子社員がまごまごしていてよく泣かされたが、プロ意識で凝り固まった名シェフであった。彼はメニューの内容、材料、産地、調理方法まで総てを服務員に覚えさせ、また自らの手作りの料理を賞味させた。

彼は「お客様とのパイプは服務員だ。彼等が出来たての料理を迅速にお客様にお届けし、食材や調理法などを説明する事が、我々の技と味をお客様に伝え、料理を堪能して頂ける要である」と言っていた。
作った料理が配膳テーブルにたった10秒でも載ったままなら、高価な食材を使ったものであっても作り直させるほど徹底していた。
そのためか彼のチームには香港人の黒服(キャプテン・給仕頭)を帯同していた。
今思えば料理の鉄人の元祖であったかもしれない。

84~5年当時、遅々として進まぬプロジェクトに心身ともに疲れ果て、上海市の茂名南路にある名門ホテル「錦江飯店」の食堂、新南楼で毎晩食事をしていた。
そこは下町の小学校の体育館のような、薄暗くて埃っぽくて、ただ駄々広いだけのレストランであった。高い天井には、シャンデリアとは名ばかりの電飾が、今にも息絶え絶えの病人のように弱々しく灯もっていた。

食事を注文しようとして、遠くの壁に寄りかかっている服務員を手招きしても、スッと顔をそむけて、なかなか来てくれない。
「コッチ向いてホイ」と子供の遊びをしているわけではないのだ。
漸く呼びつけた服務員は不貞腐れた態度で、割れかけた茶碗と、あちこちが凹んだアルミ製の魔法瓶を投げ出すようにテーブルに置くと、なかなか戻ってこない。
メニューを見て、偶にはスッキリしたもの食べたいと思って注文しても、大抵の返事は「没有」(有りません)「不知道」(知りません)であった。

結局、使い古ししてとっくに酸化している菜種油で作った、数品の定食しか選択の余地がなかった。その頃の定食は、鶏か、腐ったような太刀魚の唐揚げに、波菜(ホウレンソウ)の油炒めがよく付いた。
波菜と言っても葉っぱが5センチくらいしかなく、それに3センチ程のネズミのシッポのような根っ子がついた代物であった。

ある時、打ち合わせが長引き現地スタッフと一緒に食事した。
東京からの出張者は「日本ではホウレンソウの根は食べない」と言ったところ、現地スタッフから「根っ子は栄養が特に豊富である。日本人はその価値が解らないから皆捨てている。馬鹿な事するもんだ」と半ば蔑まされた様な口ぶりで言われたことがあった。
しっぽの栄養豊富なのは理解できるとしても、波菜は良く洗浄されていない。茎の根元辺りは何時も砂交じりの食感がした。
私は子供の頃、盲腸の手術が手遅れになり、3ヶ月も小学校に行けない事があった。
そのお陰で、多少砂の付着した野菜類を食べても、もう盲腸を再発する事はないだろうと信じ、差ほど気にせずに食する事ができ、災い転じて福が来たと思っていた。
後年、同僚でホテル大倉のプロジェクト担当者であったG氏は「上海出張が決まるたびに、食事の事を思い浮かべると出張拒否症候群になってしまい、なかなか蒲団から起き上がれず難儀した」と述懐された。

ホテルの開業が近づき、ある時、仕入れ担当部長と郊外の農村に野菜の仕入れの下見に行った。
農園は江南の長江(揚子江)デルタのど真ん中にあり、360度見渡す限り緑の地平線であった。
子供の頃育った田舎の香りが感じられ、改めて周りを見渡してみると、畑の中の至る所に露天風呂のように大きな肥溜めがあった。

当時、早朝の上海市内を散歩すると、米櫃のように綺麗な紅木の「おまる」が街路沿いの各家の前に整然と並べられていた。
リヤカーにドラム缶を改造したタンクを付けた回収車が、市内を巡回しているのは見慣れた風景であったが、ここが終着駅であったとは、思いもよらなかった。
ここまで運ばれた糞尿は、農民に合理的な価格で提供され、野菜生産の肥料となり、市内の回収作業の費用もまかなえると言う。
案内役の農場の老板は「我々は排泄物をここで寝かせ有機肥料とし、一切の化学肥料は使わない。健康管理上から見ても大変よい」と胸を張って言う。
彼等が得意顔で説明してくれた「一石三鳥の有効利用」がやっと納得できた。
然し、波菜の葉っぱの付け根の「ジャリジャリ感」は、さぞかし沢山の有機肥料が含まれているだろうと思った。

当時、小生は、在上海日本人学校の父母会長も仰せつかっていたが、なんと生徒の8割ほどに寄生虫がいた。
本社の医務室に対応の問い合わせをしたが、「日本ではもう虫下しはない。現地対応が望ましい」とつげなく断られた。
しかし、子供達は肥満症や花粉症、アトピーもなく皆元気であった。
今思えば、回虫様のお陰であったかもしれない。

上海も香港も同じ中国大陸の東海に面した大都市で、同じ中国人の町である。
然し、何故かここ上海においては、香港のように美味しい中華料理がなかった。
山と海に囲まれた小さな天国「香港」勤務時代は夢のまた夢のような出来事であった。
錦江飯店の新南楼レストランの常連客である上海駐在員仲間と、酸化して酸っぱくなった紹興酒を無理やり喉に押し込みながら、今度は「没有」という上海料理理を食べてみたいものだ、と捌け口のない怒りをこめ、慰めあったものだ。

あるとき東京から出張者が来るというので街のレストランを予約したが、なんとレストランから予約時間を指定された。
理由は我々も公務員なので、夕食は5時スタート6時までに終わってくれと言われた。
こちらは会議が終わってからそちらに行くので、どんなに早くても6時スタートにしてくれと言っても聞いてくれない。この時間で駄目なら予約受けられないとの事。

遠来の客は、中国解放前から有名な老舗なので一度は是非行ってみたいとの事、粘り強く交渉し、ついに5時半から6時半で談判が成立した。
「こんな事までに神経使いながら交渉するところかョ」と内心辟易もしたが、反面、矢張り中国ビジネスは相手の状況を理解し譲歩すべきところは譲るが、当方の主張が合理的であれば、何れ相手が降りて来るものだなどと自己満足もした。

早朝からの会議で山積していた懸案事項も一段落し、意気揚々と老舗レストランに到着した。
なんとそこには準備万端、令菜、煮物、温菜、スープ、点心それに半分腐りかけたような果物など総ての料理が、テーブルに所狭しとばかりにテンコ盛りされていた。

円卓の傍らには、薄汚れたチーパオを纏った、血色の悪い服務員が、面倒くさそうに団扇で蠅をおっていた。その様子からして、我々の到着直前まで居眠りでもしていた様な風情である。
加えて料理の一部は、明らかに干からびた状態になっていた。
服務員から「厨師は帰ったので追加注文受け付けられない」と冷ややかに言われた。

気の抜けたビールはまるでぬるま湯のように温かかった。
半分壊れかけた扇風機がカラカラと音を立てて弱々しく天井を扇いでいた。
カビ臭い湿気を帯びた臭いを拡散しているようであった。
そんな中で唯一、熱い花茶だけが救いであった。

遠来の賓客の歓迎と料理の消毒を兼、持参の茅台酒で煽る様に乾杯を重ねた。
喉越の茅台の焼けるような強い刺激と、飲み終わったあと、口の中に残るほのかな甘みと香りが
心地良かった。
今思えば夢幻のような時代であった。


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